「あの日」としか言いようがない、あの恐怖と慟哭の日からもう2年という時間がたっているのですね。
2011年3月11日。
そう「あの日」
あまりの揺れの激しさにもう家具を抑えることも諦めて、ただ落下物の危険のない部屋でドアを開け放って座り込んだあの時。
一瞬揺れがおさまった隙に玄関の扉を開き、他の部屋へ移り、テレビを点けた瞬間に映し出された遡上する津波とそれに飲まれる街、田畑、車、人の映像。
積んであったCDや本が崩れ食器戸棚の中でガラス器が落ちているのに気付きながら、私はただ冷たい床にへたりこんでいた。
あのとき日本中が、何千ものひとたちが死に呑まれていくのを見ているしかなかった。
目の前で、テレビの前で。
もう声も出せず、座り込んだのは余震で不安定だったのではなく、もうこの土地に二度と今までの日々はないんだ、それは私たちにも全く同じで、全てがこの瞬間から変わり今までの日常なんてものはなくなる、昨日という日にもう決して戻れないという、足下が崩れるような恐怖で足が震えていたから。
やがて遠く近くから救急車の声が聞こえ、普段の午後なら静かな通りが帰途を急ぐ人の流れのどよめきで満ちはじめ、離れた丘の中腹の建造物から火の手が上がるのが見えた。
その時期としては奇妙に明るくキラキラした夕暮れ手前の時間、やがて日が落ち寒さと闇が交通網とライフラインが寸断された東日本にも降りてくることを思い、その中の恐怖を想像し、慄然としていた。
夜。救助を阻む闇と余震。開きっぱなしにしていたUstreamとTwitterから次々と悪い情報が伝えられる。数百の遺体が見つかったけれど回収に行けないという報道の現場を想像したときに、この災害の全体像の荒涼を思い浮かべ、ただ戦慄した。(実際にはそのときの想像よりもはるかに大きな被害だったわけだが・・・)
そしてまだ日付が変わったばかりと思っていた時間、未明に長野新潟県境でも地震が起こり、そちらでも死者が出た。
夜が明け、情報を集めながら行方不明の友人知人の名前を必死で探し、ようやくつながるようになった電話で遠い家族親戚への短時間の安否の確認。そして被災地の不自由と悲しみにくらべたら大したこともないと節電し、家にあったもので質素な食事をととのえ、まだ救助を待つ人が一秒でも早くたすかりますようにと祈り・・・その後、まだ余震に慣れてさえいなかった日に、福島第一原子力発電所の事故が起きた。
それからの恐怖はそれまでとは質が違ったし、受け手によって本当に見えているものが違うだろう。
流言飛語と罵詈雑言の中でも、謙虚なるこの国の良心たちは静かに呼吸を続け淡々とやるべきことできることを続け、ようやく最近になってその出口が見え始めたように思う。
けれど出口不要の視点の持ち主がいる様子もまた事実。
「あの日」から2年。2万人近くの人が死亡または行方不明。30万人以上の人が避難生活を続けているという実感を私は本当に持っているか。
この2年間、ずっとかわらず主はそばにいてくれたけれど、ことがこの地震からの話になる度に、私たちは何度も言い合いをしてきた。
2年前毎日怖いと泣いていた私を支えてくれたのも主なのだけど、2年前までの私にはもう戻れなかった。
あのときの恐怖は確かに私を蝕み、被災地に住んでいないのに心を乱すことで自分に苛立ち、それは主の些細な冗談にさえ牙を向けさせた。
放射脳という人たちも心を病んでいると思うけれど、私もまったく違う形で病んでいるのだと思う。
被災すらしていないのに。
「あの日」から丸2年。三回忌。
14時46分の黙祷の後、2年前津波が押し寄せていた時間の間、亡くなった方を悼み、私よりもっと悲しい涙を流しているその家族友人たちの嘆きが少しでもやわらぐよう祈った。
テレビなどはもう見ない。文字の情報で十分。
あの時の映像は2年前に見たのだから、もう見る必要もないだろう。
ただ静かに祈る一日。
明日からも祈り続けようと思いながら、今夜も主に抱かれて眠ろう。