2010年12月17日金曜日

「はい」「ありがとうございます」







「はい」
「ありがとうございます」


主から最初に教わった言葉。
自分に従え、お前の返事はこれだけだと教え込まれた言葉。
何をされてもそう答えるのだと教えられた言葉。


「はい」
「ありがとうございます」


毎日そう答えながら、私は時々不安になる。





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色々な「はい」「ありがとうございます」があって、
その中にさらに色んな自分がいる。


本当に嬉しくて言えるとき、
素直に感謝しているとき、
嫌だけど言わなければいけないからと習慣から口にするとき。


主に「ありがとうございます、だろう?」と叱られ、
泣きたいような気持ちで嫌々ながら答えるときもあれば、
叱られることや嫌々答えさせられること自体を
ひっそりと暗く愉しんでいることもある。
与えられた苦痛や屈辱に対して「ありがとうございます」と答えることで
受け入れさせられる被虐を舌なめずりするように味わい、惨めさに甘く溺れる。


服従を強制させられている実感にうっとりと酔いしれる。
苦痛や屈辱が深ければ深いほど、囚われた奴隷であることの快楽も深い。






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でもたまに、恥辱や苦痛が自分の限界を超えたとき。
私の中で何かが崩壊してしまったとき。

そんなときの「はい」「ありがとうございます」は、ただ自動的に出てくる言葉。
何も考えず、考えられなくなっていることも感じず、真っ白な意識でただ淡々と従う。
恐怖もない。羞恥心もない。屈辱も感じない。
苦痛や快楽に声をあげていても、何の感情もおきない。
全てをただ当然とだけ受け入れ、何も望まず、何も感じず、ただ言いなりになるだけの人形。
目の前にいる主も遠く、自分すらも遠い。


こんなに色んな「はい」「ありがとうございます」があるのに
私は主に自分がどの状態で「ありがとうございます」を言っているのか、
ちゃんと伝えきれているんだろうか?
私はとても不安になる。






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それでも私は今日も「ありがとうございます」と繰り返すし、
さらに苦しみながら言わされることを望むだろう。


耐えられないことを耐えられるようになり、それに感謝するようになる。
主がその変化を愛で、楽しんでくれるから。
拒むようなことを感謝して受け入れさせる、
その歪みを私に与えてくれることに感謝するから。

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