2010年1月16日土曜日

苦しめてと言えるのは

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主が私をさんざんに鞭で打ちすえた後、嬲るように体に触れてくる。
足の間に手をやると、嘲笑うように「いやらしい」と呟く。





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ひとしきりお尻の丸みを撫で、肉をつねりあげた後、
後ろから首を絞めながら主は私を犯した。



「もっと苦しむ顔見せろ」


耳元で囁く主の声。


脳に流れる血が止まる。
頭蓋骨の中でちりちりと音がする。
膨れ上がる血管。
瞼の裏が熱い。
ぎゅっと目を閉じているのに目の前が暗くなっていく。
落ちるまであと何秒。


だけど私はそれでもうなずく。


苦しめてください。
もっと苦しめて。


解放された荒い呼吸の中ですら、苦しめてとただ繰り返す。




なぜ苦しめてなんて言えるんだろうと、時々自分が不思議になる。


どうしてそこまで言えるんだろう。
RLじゃないから言えるなんていうのは違う。
RLだって言えるときは言えるし、SLだって言えないときは言えない。



言えるのと言えないのと、その違いってなんだろう。
この前友人と話していて、気がついたこと。



主は私以外に奴隷を持たないし、私は主以外の人に仕えない、体を開かない。
抱かれたいともまったく思わない。
その複数の嗜好がないというのは、もともとそういう嗜好がないというよりも。


本当は、私たちはとても臆病だからだ。




何を恐れるかって?
答えは一つだけ。


私たちは普通の人のようにセックスもできるし、日常生活も送れるけれど、
本当のところは自分は骨の髄まで変態だってわかっているから。


だから、怖い。
自分を受け入れてもらえないことが。



私は主の許で暮らすまで、SLのBDSMの世界を知らなかった。
ここに来て1年半以上の時間が経った今は、
私たちのように一対一の関係を作っている人の方が
ずっと少ないことを知っている。


・・・正直、みんなどうしてそんなことができるんだろう?と感じることがある。
怖くないのですか?



楽しんでいる人なら、それが一番。
BDSMが趣味ですと言えるなら、それもまた健やかな楽しみ方。
全て肯定する。




ただ、主や私の中のサディズムやマゾヒズム、自分の中のその指向は
間違いなく趣味じゃない。
生まれ持った業。


私たちは大人で、各々サディストである、マゾヒストであるということを自覚し
そういう自分を否定する時期は、二人ともにもう過ぎていた。
だけど、そんな私たちですら、自分のこんな部分をさらけ出す恐怖を
複数の人に対して・・・というのは無理だ。
そんな恐ろしいことはできない。


自分の中のとても醜く脆い部分をさらけ出すのだから。



じゃあそこまでさらけ出さなければいい?
都合の良い部分だけ見せあえればいい?


そんな主従なら、そんなBDSMなら、スポーツや遊びと一緒。
そんなことをやる意味はないし、そんな時間に価値はない。


さらけ出し、そこまで見せても自分を受け入れてもらえることの
涙が出るような至福と感謝を体と心いっぱいに味わう。
そんな相手だからこそ、服従を強制し奴隷にしながら最愛の恋人と呼んでくれるのだろうし、
私は主を世界で一番素敵な人だと言う。



主のサディズム、私のマゾヒズムはそういうものだ。
同じ指向を持つ人とさえ距離を保つ。
自分の中の脆いもの恥ずべきものを共有することはできない。
長い時間をかけて自分の性的な指向を受け入れた私たちの結論。





私たちは静かに二人でここで生きている。
本当に自分をさらけ出せる相手と生きて、
それを見守って支えてくれる友人たちとだけ生きている。







↓久々に真面目なこと書いたような。うーん、はずかしいですが^^;いつものお願いです応援拍手ぽち^^

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