見てと願うことは
主が私を見ている。
主が私を見てくれている。
私はこの体が主の好みのものであることに感謝する。
主が好ましいもの、美しいものとして選び、毎日触れてくれる体。
私が何よりも気に入っている自分の体。
主はゆっくりとこの時間を味わってくれる。
自分の欲望をまるで強い酒を舌の上で転がすように楽しみ、
鎖でつないだ掌中の女を愛でてくれる。
『聞こえていないふりをして空を見上げたが、もっと可愛いといって欲しいと思っていた。
それを望むのは、卑しくて恥ずかしいことだった。
可愛さなんてどうでもいい。母といたとき、何度もそう思った。
人はそれほど美しくなくていい、愛されていればいい。
でも望まずにはいられなかった。美しくなるのが愛される道なら、わたしはそうする。』
��ジャネット・フィッチ著『扉』より)
こんな格好でこんな姿で。
それを見ないで欲しい。
けれど心の奥底では見てと思う。
思い上がるのは醜いこと。
見て欲しいと望むことは恥。
美しくありたいという気持ちは醜いものではないはずなのに、
どうして醜いなんて言葉が自分に浮かぶのだろう。
人の目を意識すれば醜いのか。
でも愛する人の目に自分が美しいものでありたいという願いが
どうして醜い?
では醜さと美しさの違いは何?
愛されたいと望むことは卑しい?
恥ずかしさや逡巡を口にする私に、主は笑ってくれる。
恥も何も感じないでいられるなら、それもまた良し。
けれど私はそうはなれないだろうし、主もそう望まないだろう。
それでも、私は主のためにこの体を作り上げたから。
こうして踊るあなたの好みの体は、きっとあなたの美意識にかなうから。
それが罪深くても。
どうか私を見て。
その目に浮かべてくれる柔らかな光を、どうかずっとそのままに。
↓考えると難しいです^^;言葉にすることはもっと難しい。いつかは上手に書けるといいな。今日も応援拍手ぽちお願いします^^
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