2008年9月23日火曜日

失った自由、手に入れた自由



















膝をついている写真がほとんどだということに気がついた。ブログを見直してみても、まだ使っていない写真を見ても、跪いていたり、手をついていたりするものばかり。

だからと言って、私が普通に座ることを禁じられているわけではない。
こうして一緒にビーチの椅子に座り、私は足を投げ出していることもある。



前の記事の時間の中で、主はこう言っている。
「凄い数のHUDでしおりを拘束してるんだよ^^」
「そう、だから自由だけど自由じゃない」
「僕の許す範囲だけでいるんだよ」



貞操帯を着けさせられ、それを不可視化させるのも許されなかった。
服を着られず、出かけることもできなかったのは、確かに不自由。


でもなぜ自分はこんなに不自由だと感じていないんだろう。


最初に主の許に来てから一ヶ月半近くの間、私は主以外の人とまったく会話していなかった。
まだ首輪とカフをつけていることに慣れておらず、この姿を他人に見られることへの羞恥心と恐怖感が強過ぎて、外へ出たくなかった。その頃は自由も不自由もない。ただ全て怖くて仕方なかったから。
(ようやく慣れてきてから、初めて主の友人たちの集まる場所に連れて行ってもらった時には、緊張したな・・・。)

今まで敬語を強制されたこともなければ、言葉遣いを直されることもなく(主のスイッチが入っているときは別か^^;)跪くことを強制されたこともない。
人前で主のことをご主人さまとは呼ばない。主の意向でもあり、私も同じ考え方。このブログは私たちのものだから、主と呼ぶし書くけれど、それを外でひけらかす必要はまったくない。

だけど、主は恋人であると同時に絶対の主だ。
「僕の言うことが絶対。しおりはそういう世界に来たんだよ」と最初に言い渡されている。


自分が主の奴隷だと自覚していても、不自由を強制されているとは思っていなかった。
主に「自由じゃない」と言われて気がついた。


確かに、買い物に気軽に行かれないのは不自由。
けれど事前にPGかMatureか調べて、Matureなら目的地の地図を表示させて人のいない時を狙えば、問題なく行かれる。
最初の一ヶ月半の間はその方法を思いつけなかったから、どこにも行かれなかった。
今はそれに較べたら、ずいぶん自由だ。
主は、私が自分を奴隷だと受け入れられるようになってからは、そうして私が出歩くのを禁止しない。ただ、危険だから一人のときはRestrained Life Viewerを使わないで通常ビューアで行くんだよと心配してくれている。


首輪とカフのせいでレンダリングコストが高い数値になってしまうので、この格好で人の集まる所には行かれない。
急に思い立ってトレハンに行くこともできないし、友人と会うにも場所を選ばないと相手にも迷惑をかけてしまう。
数え上げてみると、まだまだ色々と不自由はあるんだなと思う。


でも、私は自由だと感じてる。
それはきっと、何でも言えるから。
何でも言える自由の前では、私が許容しなければいけない不自由は大したことではないから。


主は最初から、全部受けとめると言ってくれた。
私はその言葉を嬉しく思ったけれど、でも最初は・・・お気持ちをありがたく頂戴するくらいの気持ちで聞いていた。
でも時間をかけて、主はその言葉が嘘でないことを証明してくれる。

このブログに書く内容を悩んだことがある。
その時、もうどうにもならなくなって、書きたいけど書いていいのかわからないことや思ってることをまとめて、先に主に読んでもらった。
それはとても恐ろしかった。サディストさんに喧嘩を売る内容もあったし(w)まだ私たちがたどりついていない所の話もあったし。
主がどう受けとめるのか、とても怖かった。

でも、全部読み終えて、主は「ありがとう」と言ってくれた。
とても嬉しいと。自分を理解してくれてありがとう、と言ってくれた。
思っていることを素直に言える場所なんかないんだよ、でもしおりにはそれが言える、それに感謝すると。


そうして初めて思った。
私は確かに強い拘束の下にある。
だけど、私が自分を表現することを、主は喜んでくれる。
私が私であることを喜んで、そういう私でいられるように受けとめ、守ってくれている。

確かに私は一つの自由を失った。首輪とカフをつけたアバターの体は、思いつきで動くことはできない。着るものも制限される。
でも、主の保護下で、私は精神の自由を得たのだと思う。
それこそが私のほしかったもの。
マゾヒズムなんて自虐や自己嫌悪ととても近い所にあるもの。
主の許に来て、私は少しずつ、そういう負の感情からも自由になりつつある。
拘束されていながら、深く解放されていく。

















横に座っていたけれど、甘えたくて主の足許にいきたいとねだった。
足許に降りるのは、卑屈な思いではなく、もっと近くにいたいから。
黙って髪を撫でてくれることもあれば、テーブルの上のキャンドルを持たされて、燭台にさせられて楽しまれることもある。
何であってもかまわない。主が主でいてくれることが、私には何よりも大切なのです。

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