2008年11月16日日曜日

誇り






しつこい程何度も書いているけれど、
私は奴隷になんかなりたくなかった。
私はただマゾヒストであるだけ。
調教という言葉も躾という言葉も、
聞きたくもなかった。


でも、一緒に過ごしていきたいと想った相手は、私にただ一つの条件をつきつけた。


奴隷になってくれ。
そのための全てを自分が引き受ける。だから、自分の奴隷になってほしい。


私はそれを受け入れた。
RLだったら絶対受け入れなかったと思う。


奴隷、調教、躾。どれも真っ平。
私は一人の独立した大人の女。
正体もわからない男の人に、何かを教えられる必要など全くない。


けれど、一緒に過ごしたいと想った相手がそれを望んで、
私はそれを受け入れるか、それとももうその人と会わないか、
それしか選択肢がなかった。


考えた末、SLだから、引き返すのも簡単だから・・・そう思って受け入れた。




実際に、この生活が始まって。


主は一緒にインしている間の全ての時間を私と過ごし、絶対に目を離さなかった。
閉じ込めるというよりは、ただ奴隷という未知の世界の恐怖に沈み込んだ私を支えてくれていたという方が正解だったと思う。

それにとても感謝している。


でも、冷静な私は、こう言う。
だってその恐怖を与えたのは主でしょう?
だったらそれから救うのも、主の義務の筈。


今は主を愛している私は、こう答える。
確かにそうだと思う。
でも、それができる人は、決して多くない。
というか、私は主以外に知らない。


仕えるってどういうこと。
どうすればいいの。

SMが愛し愛されるための自然な手段だった私にさえ、服従するのは辛かった。
最初の頃は屈辱と恐怖の中で、主の優しさだけでかろうじてつながっていたような気がする。


愛されていることがわかっているのに、素直に服従することができない自分、主の望むとおりの反応ができない自分をいやで、だめで辛いと泣いたとき。

私の気持ちを全部ゆっくりと言葉にさせ、それから主は穏やかに言ってくれた。


「だめな奴隷じゃないよ」
「それでいい」

「しおりに出会えて物凄い嬉しいよ^^」



そう言われて、初めて、主の思うような女になりたいと思った。


それが奴隷という立場でもかまわない。
それが、調教されることでもかまわない。躾けられることでもいい。

それで、その想いに応えられるなら、それを受け入れたいと思った。



調教や躾って、奴隷の型にはめられることだと思っていた。
でも、主が言う調教や躾は、そういう言葉を借りた、


「自分好みの女になってほしい」


ただそれだけの、簡単なことだったんだ。


「僕に仕えなさい」


主は最初の頃、よくそう言った。
それは、なんともかわいらしいことに、
「奴隷が主に仕えるように、自分を信頼してほしい、自分を何の疑いもなく愛してほしい」
そういう意味だったんだ。



それを主に、恐る恐る言葉にして聞いてみると、今頃・・・というように笑って、こう答えてくれた。


「そうだよ。だから」
「僕の奴隷は、僕の誇りなんだよ^^」





主は私を従え、それに責任を持ってくれている。


また冷静な私は、こう言う。
当然でしょう。
支配欲も征服欲も、責任をもたなければ、ただの戯言。


でも私はそれにこう答える。
そう、でも、なんて多くのSさんがそれができないか、よくわかっているもの。


自分だけを見ろ。自分の世界だけで生きろ。奴隷として生きろ。
自分がそういう無理を要求したから、それによって起きる問題は全て自分の責任。
全てを当たり前だと自然に引き受けてくれる。
だから私も全部捨てて来られた。
自分の価値観を変え、世界観を変え、主を主として仕えられる。



この会話は、もう3ヶ月も前のこと。
もう今は主も、私に仕えろとは言わない。


「いいんだ、究極的には心をしっかり縛り付けられれば」
「自然と自分が何をすればいいかが出てくる」



この時、そう言われた通りになった。


恋人を気遣うのと何も違わず、主に対して何をできるか考える。
どうそばにいたら主が喜んでくれるか考える。
それが結果的に仕えるという行為になっているようだけど、私はそれが実は今もわかっていない。
主が喜んでくれることだけが答え。


主はいつも穏やかにそばにいてくれる。
私を喜ばせ、私とともに過ごすことを喜んでくれる。
このしあわせに感謝する。



全部捨てて主と過ごせることを、誇りに思う。
このひそやかな生活を静かにここに綴っていくのは、ささやかな私たちの誇り。


  

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