
拘束からも苦痛からも解放され、穏やかに抱かれて満ち足りる至福の時間。少し前までの私の乱れ様をからかい、さらに淫らな誘いを口にする主に、私はその体温に包まれた安心感から、うっとりと答えた。・・・ご主人さまが望まれるなら、何でも。お好きなように「そうするよ」と笑って髪を撫でてくれる主。見上げるととても楽しそうな顔をしているから、なんだか悔しくなってふくれながら言葉をついだ。・・・すごいですよね。3年前の私なら、絶対こんなこと言わなかったです「いわゆる『調教された』かな?w」・・・悔しいけれどそうかも知れない「はは^^これが楽しいんだよね」・・・私は楽しくないやい調教って言葉があんなに大嫌いだったのにねなんでサディストとマゾヒストがつきあうときには必ず主従で、することはなんで調教になっちゃうんだって思ってたのにねふて腐れ気味の私に主は何も動じず、優しく答える。「言葉は言葉なんだけどね」「要は自分の好みに仕立てていく楽しみなんだよ」3年以上前のこと。「自分に仕えろ」と主が私に言っていた言葉は、なんとも可愛らしいことに、自分好みの女になってほしい、奴隷が主人に仕える様に何の疑いもなく信頼してほしい、そして愛してほしいという意味だったことを思い出す。「はい、ありがとうございます」という言葉を最初に叩き込まれ常にその言葉を繰り返させられ、そうして時間をかけてできたのは、昔よりもずっとよく「ありがとう」を口にする私。その変化は主と一緒でない時の私にも勿論自然に影響してる。誰に対してもありがとうとたくさん口にするようになって、感謝することがたくさんあるのに気づく。順序が逆でもいい。これが調教というものであってもいい。だってこれは主が私に与えてくれた善いものの一つ。主の言葉はまるでアイコンのよう。調教と言いつつ、それはまるで願いのよう。私を奴隷と呼ぶ言葉は、まるで正反対の意味を持つかのよう。そして私も奴隷の証の首輪や枷をつけていながら、主以外の誰にもそんな扱いをさせない。自分が主の奴隷だと自覚しているくせに、同時に恋人として掌中の珠のようにこの上なく大切にされていることも十分わかってる。マゾヒズムという身の内に抱える矛盾に慣れた私には、それを語義ではなくアイコンとして捉えた主の言葉の理解が容易かったのかも知れない。最初こそ戸惑ったものの、不思議な程すんなりとこの生活に私が馴染んだと主は言っていた。以前、主と私のもとに何人ものM女さんがこのブログを読んで苦しい胸の内を打ち明けに訪れてくれていた頃、私は自分の書く言葉にとても臆病になっていた。ひっそりと主への恋文として書いているものが他人の何かに触れてしまうことは、私には泣きたいほど恐ろしく、けれど貴いものだったように思う。なのに最近は、他人に会えば会う程、私が綴ってきた言葉が生んだ誤解を解くことに必死になっていた気がする。閉じ込められて主のことだけを見ていればいい今は。主がそれを望み私もそれを望んだ今は、もう逆に言葉くらい自由でいてもいいかなと思う。アイコンのような言葉、それを理解する私、どちらも人から誤解されるなら誤解されるままでいい。しばらく休んでいた後、閉じ込められた途端に文章を書けるようになったのが、何より自分も楽になった証拠。主と二人でいれば誰にも迷惑をかけないで済むし。もうしばらくこのまま、閉じ込められて心自由なままでいようと思う。shiori、IM...